北の大火を歩く
- たなかみふみたか
- 2020年6月18日
- 読了時間: 6分
2017年に大火跡を絵葉書を頼りに歩き、ブログへ2018年にupした記事を加除修正しながらもう一度上げてみたいと思いました。(2019年に再訪していますのでその時の写真も含めています)
火元については既に記事を上げていますが、北区天満の空心町2丁目70番地メリヤス製造工場からの出火でした。出火原因は火の始末を年老いた母親にまかせっきりにしたことにより、消し忘れた火がランプの油壷に落ちた、ということです。時に明治42年7月31日午前4時20分のことでした。

火元付近の焼跡ですが、よくこの一棟だけ残っていたなあと感心します。
左奥に写っているのが専念寺ではないかと思いますが、この場所について大正3年の地図(大阪市内詳細図(日文研より))を引用させていただきます。

「大火救護誌」によりますと、出火後「毒焔直に走って近接の松ヶ枝尋常小学校を舐む」とあります。
地図にある松枝小学校と真向かいにある専念寺を手掛かりにしてみますと、この専念寺は現在でもこの場所にあり、つまりその向かいの現大阪市立扇町総合高等学校がかつての松枝小学校の場所であったということがわかります。もっとも学校敷地も拡張されたり隣接する天満橋筋も拡幅されたりで、はっきりとした火元の場所は明確ではありません。
専念寺あたりから扇町高校を撮影してみました。

また、近接する場所が、火元のメリヤス工場というわけですので、「大阪大火画報」の地図などを参考に天満橋筋沿いの一角を勝手に決めてみました。当たり障りなく駐車場の写真にしておきます。奥の建物は扇町高校校舎です。

さて、出火後、強い東風に乗った火災は、第一防火線の堀川筋を突破した後、西へ南へと燃え広がります。
南の方へ広がった火は衰えることなくその強さを増し、午後5時頃、控訴院へ襲い掛かりました。


堂島川をはさんで、阪神高速高架橋の向こう側にある建物が大阪高等・地方・簡易裁判所合同庁舎であり昔の控訴院です。絵葉書と同じ場所、今の中之島公園から撮影しましたが、川幅がずいぶんと狭くなったように思えます。
この大阪控訴院は午後七時から八時にかけて全焼しています。
そしてほぼ同じころ、控訴院よりやや西にある大江橋も半焼してしまいました。



現在の大江橋は、大阪の大動脈御堂筋を担う主要な橋梁として、昭和10年に架けられています。
さて、堀川筋を突破して西の方角へ向かった火勢はどうなったでしょうか。
午後5時頃には梅田新道へ到達し、ほどなく突破、そしていわゆる北新地を飲み込んでいきます。
当時、この場所には曽根崎遊郭があり、また曽根崎川、別名蜆川(しじみがわ)と呼ばれる川がありました。
火勢が新地に迫り始めたころ、娼妓たちは大慌てで避難を開始し始めますが、その混乱ぶりが蜆川にあふれた舟の姿に残されています。



火の手は川を飲み込み、北新地は文字どおり灰燼に帰します。




いくつかの碑がかつてここに川があったことを今に伝えています。
さて、火勢は福島地区に向かいます。
出入り橋のあたり、現在はNTTの建物がある場所にはかつて旧制大阪高等商業学校がありました。

上は焼失前の建物です。建物の前に橋が架かっていますが入堀(川)であり、梅田駅から堂島川にいたる荷物運搬用に開削された水路です。
それも火災により灰燼に帰します。

出入橋あたりから撮影したものと思われる一枚です。出入橋は入堀川に架かる橋であり、この絵葉書に写っている場所で蜆川と交差していました。画像右手奥に続く水路が蜆川です。

大阪高等商業学校が焼失した後、全国から寄せられる義援物資を集積した中央倉庫が建てられ(横領事件の舞台になります)、その後、大阪市堂島庁舎が建てられます。そして現在ではNTTテレパーク堂島(情報通信施設)の一部になっています。上の写真は先の絵葉書と似たような場所から撮影しています。左端に少しだけ写っているのが出入橋の欄干ですが、撤去されていないだけで川はありません。

阪神高速高架橋の下に川があるような気がしますがもちろん気のせいです。
また、下の写真はNTTテレパーク敷地内にある堂島庁舎跡の碑です。

火勢はさらに西に向かい、日が変わった8月1日午前零時二十五分、福島三天神のひとつ、上(かみ)の天神が焼けおちます。現在は福島天満宮として再建されているこのお社は、こじんまりとした落ち着いたお社ですが当時はもう少しなにわ筋よりにあったそうです。



掲げられている社記にも「明治四十二年七月北区大火に類火炎上して一木をも残さず」と書かれていました。確かに絵葉書を見れば誇張ではないことがわかります。
この上の天神から少し北に、かつて「五百羅漢」として観光対象にもなっていたお寺、妙徳寺がありましたがここも焼けています。

この場所に関しては国道二号線沿いに案内板が出ています。

逆光で見にくいのですが北の方角へ50mの距離です。 ...しかし!
そっちへ行っても何にもないのです! 立て看板一つありません。
ま、事前に調べてわかってはいたのですがね。その場所が現在の福島公園にあたるということは。


幾人かの幼女が遊んでいましたが、なんとか写らないように撮影しました。通報されたらどうしよう、と、わりと本気で気にしていました(笑)。
しかし、公園をぐるっと一周しましたが、本当に何の案内もありません。遺構がないのは良いのです。ただ国道に案内出すんなら現地に「〇〇跡」くらいの案内も出そうよ、と思うのですが如何でしょうか。
ちなみに妙徳寺は大火後、東大阪へ移転しています。五百羅漢は... 残念ながらもうありません。
やがて大火は最終局面を迎えます。

当時、通称「焼止」と呼ばれたあたりです。現在の福島区福島3丁目から4丁目付近になります。
当時このあたりには日本紡績・福島紡績の二社の工場がありました。これら紡績工場のレンガ塀に阻まれて(もちろん集中的な消火活動も功を奏しました。またこの付近(野田地域)から西の方角には田んぼばかりで燃えるものがなかったということもありますが)さしもの大火も鎮火したのでした。8月1日午前6時30分と記録されています。発生からまる1昼夜、約26時間にわたる大火災でした。(火災広報(大阪府警察部より内務大臣に向け報告された内容)では午前4時鎮火となっています。おそらくこちらの方が公式記録なのではないでしょうか)
この焼止のレンガ塀がどこのものかは別の場で述べてみましたが、当時の遺構、というよりも紡績会社の遺構というべきものが現在の下福島公園に残っています。いや、残っていました。2017年当時には。




耐震性の問題で2018年から19年にかけて撤去されてしまいました。大阪府北部地震(2018年6月)がきっかけのようですが、確かに地元の人にとっては危険であるのは間違いなく、仕方がないことなのでしょう。
2019年に再訪したときの写真も並べましたが真新しい塀に変わっていました。


この下福島公園は、当時存在した日本紡績および福島紡績の跡地とされており、広々とした非常に良い公園です。プールも併設されていますので、夏には子供たちの声も響きます。良い場所だなあとしばらくぼんやりと眺めていましたが、良い歳をしたおっさんがぼおっとしてるのも傍から見ればなんか怪しいのではと思い、早々に家路についたのでした。
(参考)
「大阪市大火救護誌」 明治43年 大阪市
「大阪大火画報」明治42年 有楽社
「新修大阪市史」平成6年 大阪市
「大阪市新地圖 : 改正新町名入」明治33年 国際日本文化研究センター所蔵

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