中村修永という人について(伊藤晃実兄)
- たなかみふみたか
- 2020年6月7日
- 読了時間: 9分
更新日:2020年8月1日
大火義援救護物資横領事件の主犯である伊藤晃について調べる過程で、実兄の中村修永(なかむらしゅうえい)という人物に興味が出ました。
弟の晃とは真逆の人生を歩んでいる修永について触れてみたいと思います。
「兄よりすぐれた弟なぞ存在しねえ!!」というのは某世紀末漫画の有名なセリフですが、中村修永、伊藤晃の兄弟については文字通りであったと言わざるを得ません。
才能ある兄弟でしたが、実直に官僚(会計検査院検査官)としてキャリアを積み上げた兄に対し、酒と女で失敗しながら職を転々とし、ついには犯罪に手を染めた弟のどこで違いが生じたのでしょうか。
調べる過程でそのようなことを考えてしまいました。
修永について幼少期のことはよくわかりません(晃についても同様ですが)。ただ官の世界でキャリアを積み上げた修永には多くの記録が残されていますので、少し追ってみたいと思います。
1912(明治45)年6月27日発行の「明治人名辞典(中央通信社)」によりますと、中村修永とは「石川県士族山本治作氏の長男にして、嘉永6(1853)年9月5日を以て生まれ、後中村家の養嗣子となる。夙(つと)に官海にあり、現に従五位勲四等、会計検査院検査官第三部第一課長の要職にあり。夫人をはる子と呼ぶ。七男一女あり。」と記載されており、ひとかどの人物であったことがうかがえます。
1853(嘉永6)年に当時の大聖寺藩で出生したものと考えられますが、大聖寺藩由緒帳を確認しても「山本治作」の名は見られませんでした。ですのでどの程度の家格かは不明です。
同じく養子に出た中村家についても詳細は不明です(同じことは伊藤晃が出された伊藤家にも言えます)。つまり加賀時代については何も調べることができませんでした。
ただ当時の武士階級ですので相応の知識階級であったのは間違いないようで、そうでなければ成年してからの修永の活躍が説明できません。

修永自身の履歴書によれば1872(明治5)年4月12日、東京府第一大区取締組拝命とあります。満18歳での就職になりますが、武士の気風が残る時代では「子供」などではなかったことでしょう。この就職に関してはまだ大学令に基づく「大学」が誕生する前ですから学閥というものはなかったかと思われます。
彼が就職した東京府第一大区取締組とは警察組織です。ちょっと横道にそれますが、1871(明治4)年10月23日に「東京府下ニ邏卒ヲ配置ス」ことが通達されました(神奈川県、兵庫県では先行して設置されていました。「横浜」「神戸」があったからです)翌5年3月29日に「自今東京府下邏卒勤方神奈川県邏卒の方法に準拠せしむ」と東京府への邏卒制度の導入が指示され、4,000人の東京府邏卒が誕生しました。(明治維新と近代警察制度 鈴木康夫著)(明治期の警察に関する諸考察 警察政策学会管理運用研究部会)
修永の「東京府第一大区取締組拝命」もこの時のものであったようです。
横道ついでに、この当時採用された邏卒には、薩摩、長州、会津、越前(福井)各藩、および旧幕臣出身の士族が採用されたとあります(Wiki先生「警視庁」)。しかしそれに限った話でもなかったようです。修永は大聖寺藩出身で、大聖寺藩は戊辰戦争時には本家の加賀藩と行動を共にし官軍として主力の一端を担ったと考えられます。(江戸三00藩最後の藩主 八幡和郎著)
そのような経緯もあり、邏卒採用にあたり何かしらの縁故があったのかもしれません。
さて、ここまで邏卒(警察官)を連呼していますが、修永が取締現場に実際に出たのかどうかはわかりません。1874(明治7)年2月18日、彼は巡査書記掛を拝命していますので、おそらく事務方だったのでしょう。
この警察組織に居た修永がどのような経緯で会計検査院で働くことになったのか、実はこの時点で兆しが見えています。当時の警察は大蔵省管轄であったのです。
巡査書記掛を拝命したその年の5月18日、彼は「検査寮」に配属されました。「等外二等」という官職で、月給は8円程度だったと、参考にさせていただいたサイト(明治初年の職官表<コインの散歩道)では記載されていました(勉強になりました。ありがとうございました)。
そしてその同じ年の12月25日、「判任官」という職名に出世し一人前の公務員になった修永は満年齢で21歳になっていました。
この頃、天皇を中心とする新しい時代について広く国民に認識させるため、天皇の行幸が幾たびか行われていました。1876(明治9)年の奥羽地方巡幸に際しては、大蔵省からの一員として修永も同行(供奉)しています。

その後、1880(明治13)年、大蔵省検査局が廃止され会計検査院が設立されます。大隈重信の提言(「大蔵省の下部組織であれば十分な財政監査が行えない」)であると言われていますが、この時より天皇直属の組織となったのでした。戦後の今日でも会計検査院は内閣および各省庁の下部組織ではなく独立した国家機関なのです(実は知らなかったです)。地味に偉いお役所なのですね。
で、修永もこの時より会計検査院所属となるのでした。
余談を挟みます。
国立公文書館デジタルアーカイブから「1881(明治14)年5月18日「中村修永 石川県下加賀国江沼郡大聖寺町、往復を除き三十日間帰省」」の公文書が残っていました。また同年7月14日に帰京した旨の公文書も確認できました。

あれ?30日間の届出ではなかったのかな? なんとはなくですが身内の不幸のような気がします。中村家または山本家で不幸があったのかもしれません。
(はて? 修永の肩書が「検査官補」になっている。「検査官補」への任官は明治22年のはずなのに...)←この理由はわかりませんでした。
話を戻します。
1889(明治22)年12月28日、会計検査院検査官補へ任官(奏任官)し、翌年1月4日から第三部第二課勤務が発令され、次いで1895(明治28)年5月15日、検査官第二部第三課長を拝命するという出世ぶりです。中央官庁の課長様です。とても偉いです。満42歳です。
(その後義援物資横領事件の頃には新聞紙上では「第一課長」と紹介され、先述の「明治人名辞典(明治45年)」でも「第三部第一課長」と紹介されています。この「第一課長」についての官報などの資料は探し出せませんでした。残念です)
1897(明治30)年6月17日、官報に「台湾地方所在官庁会計実地検査として出張を命ず」の一文がありました。この前後、日本領となった台湾に会計検査院支庁を設置するしないでいろいろとあったようですが、実地検査を粛々と行うため、修永は台湾に出張しました。
で、推測ですがこの時に台湾民生局で働いていた実弟伊藤晃と会っているのではないかと思うのです。
晃は法政大学を卒業後、台湾民政局属官として台湾に居たようです。その後辞職し会計検査院に所属することになりますが、おそらく修永の縁故によるものでしょう。伊藤がいつ台湾に居たか、また会計検査院にいつ所属したか(所属していたことは晃の裁判で判事が言及していることから間違いないようです)、正確なところはわかりません。公的記録に晃の記録がまったく見当たらないからです。
会計検査院時代の晃は芸妓に入れ込んだ挙句、修永の印鑑を偽造し多額の借金をしたといわれています。それが返済不能となり露見するわけですが、そのことで会計検査院には居られなくなったのでしょう。やがて神戸、大阪へと流れていくことになります。
1909(明治42)年7月31日、大阪で北の大火が発生し、やがて晃による義援物資横領事件へと続いていくわけですが、晃の免職および逮捕の寸前(二日前)、修永は大阪に出向き(中央官庁の課長様がおいそれと大阪へ出向くのは普通ならなかなかできないと思うのです)晃と対面しています。「女で失敗してはならんよ」と晃に諭したようですが、時すでに遅しでした。晃は逮捕されじたばたと足掻いた末に最終的に有罪となり刑に服することになります。
心配になったのはこの事件による修永への影響です。身内に犯罪者、それも横領事件です。会計検査院の要職にある修永に影響はなかったのでしょうか...
幸いに大きな影響はなかったようです。1910(明治43)年12月22日付で賞与(ボーナス)支給に関する文書が残っており金百円が支給されています。修永に「累が及ぶ」ことはなかったと言えるでしょう。
1923(大正12)年9月1日11時58分、関東大地震が発生します。関東大震災です。会計検査院のあった麹町区(当時)も大きな被害を受け、検査院自体も火災の被害だけでなく圧死者1名を出してしまいます。また修永の自宅があった小石川区(当時)も同様に被害の大きかった地域であり、修永宅もなんらかの被害を受けた可能性があります。
同月29日、修永は辞表を提出します。ただその時の肩書が「休職検査官 中村修永」となっているのです。もしかすると地震がきっかけで休職そして辞職、という流れなのかもしれません。
国立公文書館デジタルアーカイブで「休職検査官中村修永免官ノ件」と題された公文書を確認できます。決済印が花押であり総理の花押は山本権兵衛のものです。

その数日後ですが、10月2日に「元検査官中村修永特旨叙位の件」として従四位叙位の公文書も残されています。満70歳にしてのリタイアですが、当時の定年についての考え方も調べてなかなかに興味深いものでしたが、今回は割愛します。
修永の没年はよくわかりませんでしたが、YouTubeに「日本の漢詩 : 祝 中村修永氏米壽」という作品が載せられています。少なくとも88歳(数え年でしょうが)まで存命だったのは間違いありません。
いろいろと波乱もありましたが、中村修永は実直に職責を全うし、なお慕う人も多かったようです。
それに反して実弟、晃についてはどうなったものかわかりません。この差はどこから生まれたのか... 後世のそれも赤の他人があれこれ考えるのは不遜でしょうが、「弟よりすぐれた兄」へのコンプレックスがもしかするとあったのかもしれません。想像を交えて小説にすれば面白くなりそうですが...
さて、最後にまた余談になります。
東京都中央区立図書館地域資料室アーカイブス「東京電話番号簿(大正15.5.1現在)」に中村修永の名で電話番号が載っています。住所は「小石川区宮下町20」であり、参考までに米寿の祝いがあった頃の昭和14.4.1現在の番号簿にも同地での記載があります。
この小石川区宮下町20の場所について、国会図書館デジタルコレクションから、1931(昭和6)年の「東京市小石川区地籍台帳」を閲覧しますと、576坪の土地でした。豪邸ですね。 なお借地であり土地所有者は「大瀧潤家(ますえ)」という人物です。 ...検索すれば順天堂医院内科部長として名の上がる偉い人だと思われます。
余談をもう一つ。

1901(明治34)年4月6日、「検査官松岡萬次郎出張中第二部第四課長代理を命ず 中村修永」と官報にありました。この同じ官報紙面に「3月19日上京を命ず 宜蘭庁長 西郷菊次郎」の名を見ることができます。西郷隆盛の一子であり、西南戦争に従軍するも右足を失ったがために父隆盛に促され、叔父の西郷従道の下へ投降し、後年、外交官として台湾宜蘭庁長官になった人です。「上京を命ず」はその頃のものです。
また、加藤友三郎の名も見られます。3年後の日露戦争では旗艦三笠において連合艦隊参謀長として指揮を執った人物であり、また総理大臣に就任後、在任のまま関東大震災の一週間前に病死してしまいましたが、名宰相と言える人物でもありました。
意外な歴史上の人物に触れる機会にもなりました。やはり過去の記録を紐解くのは楽しいものです。まだまだ浅いですが...
(参考資料)
会計検査院130年史(会計検査院)
国立公文書館デジタルアーカイブ
国立国会図書館デジタルコレクション
東京都中央区立図書館地域資料室アーカイブス
明治人名辞典(中央通信社)明治45年6月27日発行
関東大震災 吉村昭著
内閣府防災情報のページ 報告書(1923関東大震災)
明治維新と近代警察制度 鈴木康夫著
明治期の警察に関する諸考察 警察政策学会管理運用研究部会
江戸三00藩最後の藩主 八幡和郎著
他
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