火事跡見物に来た少年について -高田友三郎長男 弘-
- たなかみふみたか
- 2020年2月24日
- 読了時間: 4分
更新日:2020年6月7日
明治42年8月12日付の大阪毎日新聞に小さな記事が載っていました。 8月10日午前10時頃、梅田駅(大阪駅)構内に10歳くらいの少年が現れ、「火事跡を見物しに来たので車を回してほしい」と言う。不審に思い巡査が取り調べたところ、愛知県豊橋湊町の富豪、高田友三郎の長男で弘という名のこの少年は、新聞で北の大火の記事を読み、焼跡をぜひ見物したいと考え、父親から40円(現在の13万円ほど)をくすねて、大阪へやって来た、という記事です。 結局、連絡を受けた父親が翌8月11日に迎えに来て、引き渡されたということですが、まあ何と言いますか、ドラ息子です。もっとも意外にこれくらいの奴が後に大成するのかもしれないなと考えたりもしたのですが... こいつはやっぱりただのドラ息子でした。 なぜならばこの後、調べ物をしていた私は彼に再会したのです。
明治43年6月17日付の大阪毎日新聞で、再び出会うとは... なんか見たことある名前なんだよなあ、と思ったのですが、思い出すまでに少しかかりました。しかし「高田友三郎長男弘」というフレーズは残るフレーズです。 同じ大阪毎日新聞ですが、後者の記事を書いた記者は前年8月12日の出来事を知っていたのかどうか、私は知らなかったのではと思うのですが如何でしょうか。前年の記事と少し整合性が取れていないように思うのです。 「施し」はおこないますが「盗み」も行います。最終的に無賃乗車で捕まって新聞記事になるわけですが、「相当の資産家に生まれたれども天性悪事を好み、五歳の時すでに幼稚園より退校を命ぜられ学校は嫌いなれど目から鼻へ抜けるほど奸智に長け、七歳の時実家の金40円を持ち出して京都に赴き停車場より車に乗り都ホテルに乗り込みて...」と幼少よりの悪童ぶりが暴露されています。しかし、火事跡見物の下りは書かれていません。記者がそのことを知っていたなら言及したと思うのですよ。 個人的な意見を言わせていただけば「腹の立つクソガキ」なわけです。 結局、親の手に余るということで(どこで間違えたんでしょうねえ)、「愛知学院へ収容せしむる手続き中なり」と記事は結ばれています。 この愛知学院とは愛知学園のことでしょう。感化院(現在では児童自立支援施設といいます)であり、記事の前年(明治42年)に開設された施設でした。 感化院は教育的保護を目的としたもので、明治33(1900)年に制定された感化法に基づく施設です(制定以前は一部篤志家により民間で開設されていた地域もありました)。 感化法第5条には次のように規定されています。 一、満八歳以上十八歳未満ノ者ニシテ不良行為ヲ為シ又ハ不良行為ヲ為ス虞アリ且適当ニ親権ヲ行フモノナク地方長官ニ於テ入院トミトメタル 二、十八歳未満ノ者ニシテ親権者又ハ後見人ヨリ入院ヲ出願シ地方長官ニ於テ其ノ必要ヲ認メタル者 三、裁判所ノ許可ヲ経テ懲治場ニ入ルヘキ者 少し読みづらいですが、弘少年についてはこの第5条2項の規定に基づき入所(入院)が計られたようです。 最終的に彼が感化院に入ったかどうかは不明ですが、更生してまっとうな人生を送っていたら良いなあ、とは思います(本心です)。 (なお、1922年に制定された矯正院法により開設された矯正院は触法少年の矯正施設であり、後の少年院です。感化院とは別物です) さて、彼の行く末は今となってはわからないのですが、ちょっとでも調べたいな、とは思ったのです。で、「愛知県一万円以上実業家資産名鑑」(大正11年刊行)なる書籍を国立国会図書館デジタルコレクションで発見しじっくり読んでみました。(例によって「個人情報? なにそれ美味しいの?」的な資料です) 新聞記事中の豊橋市湊町、もしくは名古屋中区裏門前町、いずれにも高田家の名を見つけることはできませんでした。念のため全頁読んでみましたが、愛知県下で高田友三郎(または弘)の名はありませんでした。愛知県を出たのか、あるいは没落したのか、それはわかりませんが(資産が9千円というオチなのかもしれませんが)、なんとなく弘少年の一件が関わっていそうに感じたのでした。 そうそう、余談を二つばかり。 愛知学園では平成14(2002)年に職員が少年4人に絞殺される事件が起こっています。規律に耐えられなかったといいます。加えてもっと規律に厳しい少年院へ送られると思い込んでいたとも伝えられており、いずれにしても施設の運営とは難しいものだなあと思うのです。(全国でしょっちゅうこのような事件が起こっているわけではないことは付け加えておきます) もうひとつ。 日本で一番最初に設立された感化院は、社会事業家であり神道教導職にあった池上雪枝によって明治17(1884)年大阪市北区松が枝町に開設されています(明治19年経営難により閉鎖)。北の大火の火元、玉田庄太郎宅の目と鼻の先です。まったくの偶然ですが歴史は小さくても細くても繋がっているのかもしれません。
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