平松徳兵衛変死事件
- たなかみふみたか
- 2020年6月2日
- 読了時間: 10分
更新日:2020年8月26日
※お断り
当時の大阪毎日新聞および大阪朝日新聞を基に事件を追いかけ記事にしております。事件の時系列については新聞記事上の報道内容から拾い出しておりますが、いくつか矛盾も見られるため多少の推測も交えております。

明治42年12月10日、生駒山中にて変死体が発見されました。半身黒焦げとなったその変死体は、奈良地方裁判所の検事による臨検で胸部を撃(打)たれて即死したものと判断されます。この変死体の所持品から「平松」と刻印された印鑑が発見されたことからほどなく身元が判明しました。伊藤晃の妾の父親であるとともに横領事件の舞台となった義援物資中央倉庫の管理者でもあった平松徳兵衛だったのです。
事件は殺人事件として報道されます。誰も彼もが伊藤の横領事件に関連し、事件の詳細を知る徳兵衛の口を誰かが塞いだと考えたのです。
平松徳兵衛は三重県河芸郡椋本村(現芸濃町椋本)で生まれ、佐々木よつを妻とし二人の娘に恵まれます。その後、よつとは離縁しますが後にきよという女を内縁の妻とし、大阪市の南堀江で仲仕頭として生計を立てていました。
娘二人は芸妓として姉は台北(台湾)で、妹(たつ)は神戸の常盤花壇で働いて(大阪から通いだったかもしれません)おりましたが明治38年頃、伊藤晃と出会ったことから運命が大きく変わっていきます。たつは大阪で吏員となった伊藤を追いかけ常盤花壇を辞め伊藤の妾となり、ほどなく男児を出産します。
伊藤を旦那とし、羽振りの良い生活をするたつですが、徳兵衛もまた、明治42年北の大火をきっかけに伊藤の推薦で義援物資中央倉庫の倉庫責任者として働くようになります。
しかし...
やがて義援物資の横領が明らかになっていきます。
平松徳兵衛の人物像は概して真面目で信心深い人物であったようです。
横領に関してか、あるいは娘のことについてか、明治42年12月6日、徳兵衛は伊藤晃の自宅にて談判に及びます。しかし決裂したようで帰宅後非常に怒った様子で、娘たつに対し伊藤と縁を切るように、息子(孫)を伊藤のもとに送り返すようにと迫ります。これに対し、たつも非常に怒り、12月8日、彼女は息子を連れて、大阪市内に住んでいた実母よつを頼り家を出てしまいました。
娘のいなくなった後、何を思いめぐらしていたのか... その夜、伊藤晃が警察に拘引されます。 そのことを知っていたのか知らなかったのか、翌12月9日早朝、徳兵衛はかねて信心している生駒聖天(宝山寺)への参詣に出発しました。途中、吉田運送店の中村市松のもとへ立ち寄りますが、彼もまた警察に拘引された後のようで会うことはできなかったようです。
12月9日夜、生駒山中にて火柱が立ち上り、現場から半身黒焦げの男が発見されますが、すでに息絶えていました。地元の人々は警察へ連絡し、12月10日早朝、奈良県警察による臨検が行われ、遺留品から大阪在住者であることを伺わせる物品と「平松」という印鑑を発見し、また遺体の状況から他殺と判断した奈良県警察は大阪へ捜査員を派遣することになります。支援物資横領事件に平松徳兵衛という人物が関わっているということは知っていたようです。
しかし奈良県警察だけでは如何ともし難く、12月12日、大阪府警察と共同で平松徳兵衛方を家宅捜索しますが、内縁の妻きよと娘たつの姿が見当たらず、捜査の範囲を広げ吉田運送店の従業員複数名を拘束し、次いで午後2時頃中村市松を訪ねてきた門野(或いは古川)音松という男を逮捕するに至ります。徳兵衛殺害の実行犯としてです。
後、事件が報道された際に掲載された変死体発見前後の生駒山中での目撃証言によると、次のような不審な人物が注目されています。
①生駒聖天近くの茶屋にて、12月8日夕刻、石油缶のようなものを風呂敷に包み携えた男が道を尋ねている。
②12月9日夕刻、死体の遺留着衣に似たいで立ちの年齢五十二三の男が茶屋に立ち寄り、後から二人の女連れが来たら一足先で休んでいると伝えてくれと言う。まもなく五十前後の女と三十二歳ぐらいの女が訪れ提灯一個を借り受け火を灯さずに男の後を追う。
③12月10日、二人の女連れが提灯を返し、「人殺しがあったというが知っているか」と震えながら尋ねそわそわしながら下山して行った。
報道は、①の男が実行犯であり、②の男が徳兵衛、そして二人の女連れが徳兵衛の妻きよと娘のたつであると論じ、彼らの共謀による殺人であると述べています。
また奈良県警察の臨検により徳兵衛の胸には、右方肋骨二枚を砕き肺に達する重創があり、殺害後火をかけたもの、ともされています。
どう考えても殺人事件です。
しかし、報道の内容はころころ変わり面白いくらいに錯綜し、やがて二人連れの女の件はどこかへ行ってしまいます。これは娘のたつが実母宅にいたことが明らかになり、妻のきよも郷里の今治へ帰っていたことが明らかになったことからでしょうが、それでも記者によっては二人の共謀説を引き摺るかのような記事を書く者もいたりして、なかなかにゴシップ誌化している側面も否めません。
12月15日付東京朝日新聞によりますと実行犯とされた門野(古川)音松は、横領事件の主要人物の一人である中村市松の子分であり、横領事件で徳兵衛が尋問されたならば、倉庫責任者としてすべてを知っているがゆえに何もかも喋ってしまう、ということを恐れ、そうなれば中村市松から自分へも捜査の手が伸びると想像し、徳兵衛に証言しないように頼みこもうと生駒まで付いて行ったものの、真面目な徳兵衛に断られたため撲殺し証拠隠滅のため火をつけた、という筋書きで大阪地方裁判所の濱田検事に起訴された、と報道されています。
また、12月14日付大阪毎日新聞では、大阪府警察の木原保安課長直々の取り調べにより、音松はかねてより伊藤に恩義があり、倉庫番人徳兵衛が取り調べを受ければなにもかも白状してしまうだろうと伊藤が気にしていたので殺害を引き受け、生駒詣りを口実に誘い出し殺害したと自白をした、と報道しています。
東京での報道が一日遅れになるのは仕方ないにせよ、報道するうえで動機がこんなに違っていても良いのでしょうか。
実際のところ、これも報道からですが、音松が逮捕されたのは12月12日午後2時であり、木原保安課長の取り調べにより、彼が自白したのは12月13日午前1時です。
取調室での11時間... 何があったのでしょうか。想像したくないなあ。
本サイトにて伊藤晃の横領事件について書いた記事の中で「先に言っておきますが、報道を読む範囲で様々な人物が登場します。が、ほとんどの人物が「おかしい」です」と言いましたが、私がこの一連の事件の中で(平松徳兵衛を除き)、「おかしくない」人物と(たぶん)言えるのが大阪府警察の赤埴(あかはに)警部です。徳兵衛事件については実質彼が解決したと言えるでしょう。
大阪府警察は12月13日から死体発見現場の生駒山中へ捜査員を派遣します。まず、先発隊が、そして翌14日に赤埴警部を中心とした本隊が生駒へ向かいました。
そのルートは平松徳兵衛が辿ったのとおそらく同じ「中垣内越え」と呼ばれる生駒聖天参詣道です。現在のJR学研都市線住道(すみのどう)駅から徒歩で生駒山を上るルートで、大正に入って大阪電気鉄道(現近鉄奈良線)が開通するまでは大阪側からの参詣ルートとしては一般的なルートでした。
しかし、その登山が真冬のしかも夜間に行われたというのは大阪府警察は何を考えていたのでしょうか。同行した記者の記録によると、凍結した山道に加え、体重二十貫(75Kg)の赤埴警部は疲労もあってか何度も躓き崖下へ落ちそうになったと記されています。警部は同行者を振り返り「第二の徳兵衛はまっぴらご免だ。諸君用心したまえ」と皆を鼓舞した、とあります。ユーモアなんでしょうが現代なら不謹慎と言われそうなセリフです。
ともあれ、午後11時頃、目的地の宝山寺(生駒聖天)に到着し、先発隊と無事合流しました。
ちなみにこの12月14日に事件の第一報が報道されています。おそらく警察からの、今でいうところの報道管制、或いは報道協定によるものなのでしょう。
赤埴警部は翌日の12月15日、死体発見現場付近を捜索します。そして徳兵衛の遺留品が置かれていた小屋の割れ板を警部がステッキでひっくり返した時、それが出てきたのです。
記事(12/16付大阪毎日)には次のように書かれています。「同警部は数名の刑事とともに氷小屋より焼失せる現場および死体の発覚せる渓流のあたりをつまびらかに検視し、他の刑事らをして灰燼の中より着衣の焼け残りなど拾得せしめ、自身はただ一人氷小屋の背後に至りて、しきりと枯れ草の裏をステッキにて探りいたるが、突然「わかった、自殺だ」となかば落胆の嘆声を発しつつ一通の書置きを振りかざせり」
同日付の大阪朝日では微妙に赤埴警部のリアクションが違う(警部は書置きを発見した際、小躍りしてそれを取り上げた、とあります。個人的には「落胆の嘆声」と書いた大阪毎日の方がリアルな感じがします)のですが、小屋からステッキを使って赤埴警部が発見したということは共通しています。苦労して登山した甲斐があったというものです。しかし、殺人という見込みがひっくり返ったのは確かに落胆してもおかしくはなかったかと思います。それでもそれまでに推測していた事件のストーリーに拘らず、自殺に転換させたのは正しい姿だと思います。
ただし「赤埴警部は」、と付け加えておきます。
遺書の内容は次のようなものでした。
「とくべ ちょっと書置き致し この度自殺の決心したのは別に悪いことをしたわけではありませず ただ 今の身の上を考えるとこの世が嫌になりましたゆえ決心しました あとはみなみな機嫌よく暮らしてくだされ 頼みます」
筆跡も徳兵衛のものだと確認され、その後麓の中垣内にて石油を買う徳兵衛らしき人物も確認されました。
事件は決着したのです。したの... ...はず...
ところで徳兵衛の胸の傷は何だったのでしょうか。奈良県警察によると「右方肋骨二枚を砕き肺に達する重創」があったはずです。
宝山寺付近の宿屋の亭主によると「徳兵衛の死体は検視のうえ現場より十町ばかり隔たりたるところに仮埋葬に附したるが、その時人夫どもの取り扱い苛酷にして、担ぎ行く途中三度まで大地に取り落とし、埋葬地にても棺桶の中へ縄を切って死体をズドンと落としたればその際肋骨は折れたるものならんとの噂あり(12/16付大阪朝日)」地元の人間はその後、かかわりあいを恐れその事実を秘密にしていたようで、他殺説はそこから発生したようですが、地元では初めから自殺と思っていたようでした。
奈良県警察、おまえのせいか。
12月16日、犯人とされた音松は放免されました。 ...が、ここで濱田検事が「ちょっと待った」を出します。彼は横領事件の主任検事です。この決着は彼の頭の中のストーリーと大きく食い違っていたようです。
音松が放免されると行き違いに、今度は濱田検事が生駒山へ臨検に向かいます。横領事件を含む大阪市全体で起こる一大疑獄事件に「殺人」のトッピングがどうしても欲しかったのでしょうか。その後、時期は不明ですが音松は再び拘引されたようです。
そして、 明治43年2月1日、音松は証拠不十分として免訴が決定しました。
補足になります。
ネットで検索して容易に読むことができますが、「明治期の警察に関する諸考察」という警察政策学会管理運用研究部会の資料によりますと、「戦前の日本では捜査は検事が指揮する形にはなっていたが、実際には警察がどんどんやっていて予審判事に令状請求をする段階で初めて捜査の中身に検事が触れることになり、それまでの日常捜査は警察官が独立して行っていたという認識が検察の世界でもあった」という意見が記載されていました。平松徳兵衛の変死にあたっても、大阪地方裁判所の検事の下で大阪府警察は活動していますが、赤埴警部と濱田検事の動きを見てみますと明らかに連携していません。
これはつまりそういうことなんだなと思うのです。
もう一点。正真正銘の蛇足です。
上半身黒焦げ(顔も含めて)の死体が平松徳兵衛のものであると確認された決定的な証拠は娘のたつの証言からでした。曰く「陰毛が完全に白い」。
娘の前でフリチンはやめようぜ、徳兵衛さん。
おまけに死んでから新聞報道されるなんて可哀そうだな、徳兵衛さん。
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