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火事跡の犯罪 -新聞報道から-

  • たなかみふみたか
  • 2020年6月28日
  • 読了時間: 8分

更新日:2020年7月18日

 焼け野原となった大阪市内北部ですが、大きな暴動が起こるわけでもなく一定の秩序は保たれていました。そこには行政(軍を含む)による秩序維持の努力もありましたし、また市民ひとりひとりの助け合いや「我慢」というものもあったでしょう。それは現代の日本でも種々の災害時にみられる「民度の高さ」と同じものであり、100年前から変わっていないというのは誇らしく思っても良いのではないかと思うのです。

 ただ犯罪が全くなかったわけではありません。これもまた現代と同じ構図の犯罪も見られましたし、また当時であればこその世相を反映した犯罪もあったようです。当時の新聞(大阪毎日新聞)記事から見てみたいと思います。

 特に目立つのは金属盗難です。現代においても変わらない品目ですが、明治30年代以降、官営製鉄所などが登場してから(鉄スクラップから製鉄することも多いそうです。なんとなく全部鉄鉱石から作っているというイメージがありました)鉄需要は大きかったようです。なので、焼跡に転がっていたであろう電線などは当時の古物商などには大儲けのチャンスと映ったかもしれません。それが非合法であったとしても...

 8/6付紙上では、「神戸の古物商、井上要太郎という人物が同業者15名と共に焼跡の電線を窃取するところを北署に捕らわれる」という記事が掲載されていました。神戸から集団で遠征してきているのですから本格的です。神戸には明治38年に小林製鋼所(神戸製鋼所)が操業していましたので、もしかすると大量の屑鉄を売りさばくことも容易だったのかもしれません。

 もっとも神戸に限らず、この時期はあちらこちらから電線などを窃盗する目的でその筋の人々が集まってきていたようです。8/5付紙上によりますと「奈良県在住の廣田敏夫という男が、8月3日早朝より電信電話線針金等を窃取し逮捕された」とありました。しかも自供によれば「これが三度目」の窃取だそうで鎮火直後からわざわざ奈良県から金属を盗みに遠征してきていたということがわかります。また8/12付紙上では「南区の津田菊次郎という男が、大火後、毎日焼跡を巡り焼け残りの電話線を拾い集めて夜間ひそかに船に積み古物商へ売却していたが、水上署にて検挙された」という記事もありました。大阪府警の水上警察署のお手柄ですが、船舶を駆使するこの警察署は大火当日も八面六臂の活躍をしたことが「大火救護誌」に記録されています。いずれご紹介できれば良いかなと思っています。

 このように金属盗難は非常に多く大掛かりに発生していたようですが、そのような電線などの窃盗に限らず鍋釜その他家具などの、イメージしやすい火事場泥棒も多かったようで、8/5付紙上には8月3日までの検挙数が掲載されていました。それによりますと北署6、曽根崎署8、南署1、天王寺署2、計17件逮捕者数14名だそうです。捕まらなかった者もいたと思いますので実犯罪数はもっと多かったことでしょう。それでも「この程度」であったことは救いだと感じるのです。


 少し変わった犯罪もご紹介したいと思います。

 8/11付紙上で「無法極まる一現客」という見出しがありました。(昔は「一現客」という漢字を使っていたようです)

 北区西梅ヶ枝町(現西天満)の酒屋に八字髭をたくわえた紳士風の男(35,6歳)が現れ、のどが渇いたから冷酒をいっぱい飲ませてくれと求めたそうです。で、あっというまに三合飲んで、自分は兵庫北仲通の池辺清というが、知人の火事見舞いに来た。が、どこへ避難したものか行方が分からず云々、と語りだしたのです。やがて酔いがまわってきた頃、突然紙と筆を借り「金十円正に借用候、神戸池辺」としたため金を貸してくれと言い出します。一見客でもありそんなことはできないと拒否すると、男は怒りだし、突然鋏を取ると自分の左腕を四か所切りつけ、流れる血をコップに受取り、右手に受けたかと思うと先の証文に手形を押し、これでも金が貸せないかと血相変えて怒鳴りだしたのです。結局5円とビール一本を奪って揚々と店を後にしましたが、血が流れ続けていたようで警察官に呼び止められることになります。...が、警察署では警察署で、警察官相手にひと悶着を起こし、挙句に取調室で大いびきをかき始めたのです。ところが一夜明けると打って変わって「猫の前の鼠の如く」何事も一切知らぬ存ぜぬの一点張りになったこの男は、神戸北仲通で布団貸業を営む士族池辺清(36)という人物で、そこそこ裕福な暮らしをしているのですが恐喝の前科があり、酒を飲むたびに暴行を働くという素行が明らかになります。  最終的に裁判所へ送られたようです。(送検されたというイメージで良いと思います。当時の検察は裁判所内の組織でした)

 嘘をついているわけではないのですが、酒と大声で気が大きくなるタイプのようです。自分の血で手形を押す、というのも迷惑な話で、なんとなく私は「壮士」という言葉を連想しました。三省堂大辞林によれば「明治時代、自由民権思想の普及のために活動した闘士。」という意味のほかに「ことさら社会正義などをふりかざして談判におしかけ、強要・脅迫などをする無頼漢。 」という意味もあり、とにかくたちが悪い。現代でもこのような輩は少なくないなと思いますし、勘違いした人物に出会ってしまった不運としか言いようがありません。

 もうひとつ、大火が原因で暗転した人生といえる記事です。これは大火翌年の明治43年5月12日付大阪毎日新聞ですが、北区空心町2丁目に住んでいた長谷とよ(20)という女が起こした事件です。記事によりますと、5年ほど前に兵庫から大阪へ来て下女奉公をつとめながら実家へ仕送りをおこなっていた孝行娘と評判の女でした。ところが北の大火により衣類ことごとく焼失し、加えて父親が病気になり国許へ往復したりと費用がかさみ、多少のたくわえである貯金もなくなってしまったのだそうです。で、記事によりますと「さる3月15日東区今橋5丁目住み込みの下女奉公にあがったがこの家の奥様がハイカラで美しいのに憧れ自分も着飾ってみたいとの思いから主人の衣類を持ち出し、嬉しさのあまりあちらことらと徘徊したが、だんだん夜が更け良心の呵責もあり、さりとて主家にはもどれず、鶴橋あたりをさまよい歩き果て、心を決して主人に謝ろうと北区あたりまで立ち返ったところ挙動不審として警察官にとらわれ取り調べの上「懇々説諭」を受けた。」とのことです。

 明治の文明開化から後、日本は一丸となって国力増強に邁進し先進国への礎を築いていった、というのは間違いではないのですが「貧しさ」というものが置き去りにされていった時代でもありました。特に地方での「貧しさ」は特筆すべきものであり、しかし、皆が同じ「貧しさ」の中にいたために疑問を持つこともない時代でもありました(それが悪いことかどうかは現代の視点で断じてはいけないとは思います)。先の長谷とよも、誘惑に負けたといえばそれまでなのですが、頑張って生きていても一夜にして焼け出され、親の面倒を見るために貯金も使い果たし、確かに辛かっただろうと思うのです。ちょっとぐらいストレスの発散で着飾ってみたいと思う... 正真正銘「魔が差した」のでしょう。心細くなってうろついていたところを警官に見つかったのは、幸いだった、と私は思います。  貧しさゆえと言えば次のような記事もありました。しかしこちらはあまり同情できませんが...  8/11付紙上です。「焼跡の二人強盗」の見出しが躍っていました。鶴松(27)という若者が夜の11時ごろ、「松島(遊郭)ひやかしの帰り酒気を帯び堂島川船津橋北詰を東に差し掛かったところ突然暗中から大男が現れ鶴松の喉を締め上げ「命が惜しければ金を出せ」と脅され衣服を奪われた。」とありました。しかしこれだけでは終わらず、逃げる鶴松を大男は追いかけてきたのです。鶴松が福島小学校(北の大火で校舎を焼失しています)あたりまで逃げてきたところ、焼跡の暗闇から丸太を振りかざした別の男が現れ襲い掛かって来たのです。とっさに横手の溝に飛び込んだ鶴松でしたが、二人の男から刃物で脅されながらも、うずくまって怯えていたらいつの間にか男たちはどこかへ行ってしまったそうです。鶴松はほうほうのてい(「這う這うの体」と書くようです)で自宅に逃げ帰ったのですが近所中で大騒ぎになり、姉のいさ(35)と共に曽根崎署へ出頭、事件を届け出たのです。  曽根崎署では大事件と騒ぎになったのですが、よくよく話を聞くとなにかおかしい(うん、わたしも読みながらそう思っていました。ツッコミどころ満載のような気が...)。警察では大火後ということもあり夜ごとに巡査を増員し見回りをしており、かつ船津橋付近には派出所も二か所ある。そこで別室で鶴松を厳しく取り調べると、松島遊郭壽楼にて自分の着衣が汚いため相手にされなかったことを残念に思い、「どうかして垢のない衣服が新調したく」そのため追いはぎにあったと裸で帰れば姉が衣服の一枚も作ってくれるかもと、自分の衣服を隠し、体に溝の泥を塗り狂言に及んだとのことです。そう、狂言だったのです。鶴松は「厳しく説諭の上放免」となりました。  なんだかいさ姉さんが一番可哀そうな気がします。

 この事件?の舞台となった地域は現在の西区から福島区にかけての地域です。現代では想像しにくい(大阪市民でさえ)のですが、当時の西区界隈は大阪行政の中心地で住民の数も非常に多い地域でした。それは最初の大阪市電が松島近くの九条から築港桟橋(大阪港/天保山)を結ぶ路線だっということからも明らかです。その松島からの帰路、焼失した地域の境目である福島へ向かう途中に遭遇したという「追いはぎ」ですが、狂言だったというオチを笑うことは確かにできるのですが、新しい衣類が欲しかったという動機は、これも当時の一般市民の「貧しさ」を窺い知ることのできるエピソードだと思います。

 と、以上だらだらと新聞記事からの引用、羅列ではありますが、大火の後に起こった出来事も当時の「生きていた」人々を感じる資料ではないかと考えているのです。

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